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2018年04月13日

◆  立花宗茂の人間学  ◆ 

㈱内田建設 朝礼 平成30年4月13日(金)

     テーマ  コケの一念、岩をも通す

◆   立花宗茂の人間学   ◆

 おはようございます。みなさんは立花宗茂という武将をご存じでしょうか?戦国から近世にかけて生き抜いた武将ですが、こどもの時から家族愛というか部下愛に満ちていて一家という意識がとても強い人でした。
宗茂の人生というのは、最後まで“人の和”というものでして宗茂が子供の時、城下町で城の侍二人の喧嘩が始まったので、とばっちりを受けてはいけないと思い 近くにいた者は、みんな逃げてしまったのに宗茂だけはそこにいたというのでした。
供の者が「あぶのうございます。ここは、一旦去りましょう。」と言ったが、それを聞かずこう言ったといいます。
「二人とも父の部下だ。みんなが逃げて、大変だ、大変だとさわぎ立てれば、あるいは仲直りをしようかな、と二人が心の中で思っていても、出来なくなる。俺が父の子として 大したことではないぞ、という顔をしてここにいれば二人の面目を保ち、二人は仲直りをするかもしれないではないか」といってその場を動かなかったといいます。城主の子が、にこにこしてその場から見つめていたので斬り合っていた二人も体裁が悪くなり、ついに仲直りをしてしまった。
人々は宗茂少年の大人もおよばない人間学に感嘆したといいます。

 成人した宗茂が率いる立花軍団は、まとまりのよさと勇猛さで名をはせ宗茂は、「俺の戦いは、すべて義のためのものである」といってスジの通らない戦いには断固抵抗したようです。
特に侵略には死力をつくして抵抗し、当時、宗茂のいた九州を荒らしまわっていた大友宗麟と島津義久たちには抗っていたようです。そして、秀吉に対しても当初は、果敢に抵抗していたのですが、時流を見抜いた宗茂は秀吉に下り島津攻めに参加しました。島津義久も 秀吉に下り 旧領を安堵され、宗茂には十三万二千石を与えくれ、ここに 立花家柳川藩の誕生となったのでありました。
大名となった宗茂は、“人の和”を軸とする立花一家の設立に邁進していくのでありました。
そして、城中の和の火は領民にも飛び火し、宗茂の領内では人の和運動が広がっていきます。

が、平穏は長くは続かず、関ヶ原の合戦がはじまりました。義に厚い宗茂は、「秀吉さまのご恩にこたえよう」といって、石田三成の蜂起を“義戦”とみてこれに参加したのです。立花軍団を率いて、関西に上り、大垣城を攻め落としたのでありましたが、留守の間に隣国の鍋島直茂が立花城を攻撃して落城させたのでありました。 鍋島は、はじめ石田に味方していたのですが、徳川家康のご機嫌をとり急に旗色を変え裏切ったのでした。戦場での小早川の裏切りが勝敗を分けたことは有名な話だが、裏切りは関ヶ原のメイン戦場だけではなかったのです。
宗茂も鍋島の裏切りに憤り 鍋島攻撃を決意するが、加藤清正によるあっせんで我慢し潔く城を明け渡すのでありました。 清正は、「家来を全部つれてしばらく私の城(熊本城)でご休憩して下さい。」と言われたそうで、宗茂は一家を縮小し百人ほどの家来を連れて熊本城に入られたそうです。

宗茂のあとには田中吉政という大名が入り宗茂時代の慣行を全部廃止し城もきらびやかに改造され、立花一家は痛憤したが、宗茂は「がまんしろ」となだめたのでした。そして、ある夜突然、「城を出る」といい百人をさらに二十四人に縮小しひそかに熊本城を出ることにしました。いつまでも、ここにいては、清正が家康に狙われると思っての行動でした。
これによって 立花一家はさらに小さくなってしまいました。 しかし、このことが洩れ、藩境を超えると、旧立花領民が大勢待ちかまえていて、「わしらと一緒に柳川にお戻りください。田中など追い出して、お殿様に城をお返しいたします」といったのです。宗茂は、「気持ちはありがたいが、それでは義にそむく」といって去っていき、多くの領民たちは泣いて見送ったのでした。

その後 宗茂は、江戸に出て、一家二十四人の家来たちが宗茂の面倒を見たりするのでした。このことが将軍秀忠の耳に入り、五千石の旗本にという話がありました。一家二十四人は「馬鹿にしている!」と怒ったが、宗茂が「いや、受けよう。士は求められるところに赴くべきだ」といって、秀忠の旗本となるのでした。
その後、将軍秀忠は宗茂を東北の棚倉に封じ、一万石の大名にするのでした。秀忠にすれば、深い考えがあってのことでしたが、立花一家の二十四人には、それがわからないので「 奥州棚倉など、日本の僻地です。そんなところなど辞退しましょう!」といきまいておりました。 が、宗茂は「いや僻地などといっては、棚倉の民にすまない。同じ日本の土地だ」といって受けるのでした。
宗茂はこのころ、「人間の運命は、他人が決める」と思っていたようで、どんなに才能があっても、運がなければ、どうにもならないと思っていたようでした。しかし、運というものは決して偶然ではなく、他人の考えが集まったものであり他人が何を考えているのか、こっちには全く予想がつかないのです。
宗茂に旗本になれ、棚倉の大名になれ、と命ずるのは将軍秀忠でこの国最大の権力者なのです。その秀忠は宗茂に会ったこともなければつきあいがあるわけでもないのです。宗茂のことは他人からきいているというだけなのです。
宗茂を“義にあつい武将”“部下愛の深い武将”と噂する物は多いのです。
それをきいて秀忠は、「風見鶏の多い今の世に、珍しい男がいるものだ」と思っていたのです。その宗茂には、くっついてはなれない、金魚のウンコみたいな“一家”の連中というのも珍しいと思っていたのだそうです。
 秀忠は心の中で「宗茂に九州の旧領を返してやろう」と思っておりました。しかし、それには手順がいる。父の家康に敵対した彼を、いきなり元の大名に戻すというのは筋がとおらない。罰としての浪人→旗本→小さな大名→そして往時の大名→こういうプロセスを考えていたのです。
そして、段階ごとに「立花宗茂は、義にあつい武将だ」という宣伝をしてあげる。次の段階にいくための、世間の人への説得なのです。その承認を得るためにおこなった段階という点については、秀忠は実に慎重であってようです。
秀忠のそんな気持ちを、立花一家の二十四人は勿論、宗茂自身も知りませんでした。
 宗茂はことばどおり、「士は求められるところに赴く」ということで、人事には淡々としており、「人事は人の事」と書くように人が決めるものと割り切っていたようです。 そして、宗茂の そういう無欲さ淡泊さは秀忠もよく知っていたのです。
だからこそ、宗茂は正しく遇すれば徳川の忠臣となると、ずっと心に思っていたのです。
元和六年、宗茂は柳川に戻ったのでした。十一万石を与えられ、旧臣、領民が歓声をあげ涙を浮かべて走り寄ってきたのです。コケの一念を貫きとおした宗茂の、立花一家の珍しい勝利であった。
関ヶ原の戦い後、大名として復帰した武将はいるが、旧領を回復した武将は後にも先にも、宗茂ただ一人であったということです。

そして、本日この中から学びたいと思っている点を抜粋してみると運というものは、決して偶然ではなく他人の考えが集まった者であり、他人が何を考えているのか、こっちには全く予想がつかないと言いましたが、これを当社に置き換えてみますと、内田建設は社長のいうとおりにしていればよいと言うのではなく、社員一人ひとり、自分たちの持っている意見をどんどん言っていただきたいということです。勿論、皆さん一人ひとりの意見がそのまますべて受入れられることは ないとは、思いますが、会社の目指す方向とそれぞれの皆さんの見ている方向を知り、微調整を行いながら お互いのベクトルを合わせることで、当社の経営理念の中にある組織づくりという項目の 一人ひとりが会社のために、また会社が一人のために、互恵協力体制の中で、明るく強い組織の大和を創り上げる というものに最短時間で近づいていくと思うのです。

 戦国時代に義を貫きとおした立花宗茂より、気付きをいただき当社に、また自分たちに置き換え 他社にはない会社組織にしてまいりましょう。

 ちなみに、この後、2020年東京オリンピック開催の年にNHK大河ドラマの主役にしてほしい歴史上の登場人物で 立花宗茂 が 堂々の第一位となり大河ドラマ招致合戦では、大石内蔵助 の忠臣蔵と鍔迫り合いが繰り広げられていくことは、間違いないと思われます。
  

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2018年04月11日

◆ 何をやるか?ではなく誰がやるか?

㈱内田建設 朝礼 平成30年4月11日(水)

◆ 何をやるかではなく誰がやるか  ◆


 何年か前に、石田三成と大谷吉継の話をしたことがあると思うが覚えているだろうか? 大谷吉継というのは白頭巾で顔を隠した戦国武将であるが、当時吉継はハンセン病にかかっており、秀吉が大阪城で開いたお茶会で一口飲んでは、次の人に回していくという会に出席していたのでした。このとき吉継が茶を飲んだ時に顔から膿が落ちて茶碗に入ってしまったため、後の人は嫌がって誰も口をつけなかったのですが、三成は何事もなかったように ゴクリ と飲み干し「うまい!」と言いおかわりを頼んだと言われております。これに吉継が感動し、三成のためなら死ねる!と思ったそうです。
 
その三成が秀吉の没後何年か経ち、関ヶ原の合戦の前に大谷吉継に向かって徳川家康との合戦の際、「西軍にお味方していただきたい」 というものであったが、大谷は三成に向かってやめておけと言ったそうです。その時大谷の言った言葉が「世間の流れは徳川家康に傾いている。今やっても勝てない」というものでありました。
すると、三成は俺のやろうとしていることの方が家康よりも正しいと説明するのでしたが吉継は、「 何をやるかではなく、誰がやるかということで世間は動く だから、よせと言ったのだと 」言いました。三成はそこで大谷に向かって、ショックを隠しきれず、そうかお前までも家康につくのか?といって嘆いたそうですが、大谷は「見損なうな考えと行動は別だ、おまえを死なせたくないから言っているのだ 」と言って、石田三成側にいて最後まで勇敢に戦ったのが大谷吉継でしたが、イメージからいくと石田三成は、「誰が」ではなく「何が」の人間だったようです。

これを、先日まで語っていた西郷隆盛に置き換えてみると、西郷隆盛の同郷鹿児島の大久保利通にあてはまる。 勿論、「何」というのが大久保利通であり「誰」というのが西郷隆盛である。
今、求められるリーダーの条件としては先見力、情報力、判断力、行動力、体力などであるが、これらの条件を物差しにした場合、条件を充たしているのは圧倒的に大久保利通であると思う。
そして、現代は大久保的人間でなければ乗り切れないのも理解できる。
それでも、世間では西郷は血の通った温かい人、大久保は非常で冷徹な人というふうに映ってしまうのはなぜだろう。
西郷は「敬天愛人」を座右の銘とし、つねに天を意識していたからかもしれませんが、こんなエピソードがございましたのでお話ししてみますと ある日、陸軍大将であった西郷が、坂道で苦しむ車夫の荷車を 後ろから 押してやったところ、これを見ていた若い士官が西郷に「 陸軍大将ともあろう方が、車の後押しなどなさるものではありません。人に見られたらどうされます。」と言ったそうです。
すると、西郷は「馬鹿者、何を言うか。俺はいつも人を相手にして仕事をしているのではない。天を相手に仕事をしているのだ。人が見ていようが、笑おうが、俺の知ったことではない。天に対して恥じるところがなければそれでよい。」
他人の目を気にして生きる人生とは、相手が主役で自分が脇役となり、正々堂々の人生を生きている人は、真理と一体となり生きているため作為のない生き方であり誰に見られようとも恥をかくことはないのです。
西郷隆盛は、明治以後でいうと特に人望のあった日本人でした。彼のように天を相手に正々堂々と生きていくことが、何をやるかではなく、誰がやるかという本当の意味とするところかもしれません。
そして、最後に敬天愛人の教えを掲載しておきます。
道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天を敬い人を愛し、天を知り、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ねるべし。 天は人も我も、同一に愛し給うゆえ
我を愛する心を以て、人を愛すなり。
これが、近代日本の礎に身を挺した西郷隆盛の教えでありますが、いつも私が言っているように、こういった話を聞いてみて一番大切なのは、ここから学ぶ 気付きと置き換えです。今、自分が西郷の時代に行って西郷のようにふるまうことは出来ませんが西郷が今の時代にいたらどうするだろうか?西郷ならきっと、このように行動するのではないか? 歴史を学び時間軸を広げ、西郷隆盛、あるいは坂本龍馬に学び自分の行動するべきヒントを見つけみて下さい。それこそが当社の朝礼で学ぶ気付きと置き換えから、学ぶ 本当の意味だと思い毎日のお話しをしている原点なのであります。
  

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2018年04月06日

他人の痛みを思いやるリーダーシップ

㈱内田建設 朝礼 平成30年4月6日(金)

     テーマ   西郷隆盛と坂本龍馬

    ◆  他人の痛みを思いやるリーダーシップ  ◆

 おはようございます。一昨日は西郷隆盛の人生訓の中から克雪、和雪、利雪の論理について お話しをいたしました。そして、昨日の朝礼で誰がためにというお話しをさせていただき、利他の心を養いましょうというかたちで締めくくりましたが、今日は 西郷隆盛に並び称される幕末の英雄に坂本龍馬という男のリーダーシップの発揮の仕方と西郷隆盛の違いなどを比較してお話し致します。

 龍馬が活躍した時代は、もうこのまま日本が消滅するのではないかというくらいの危機的状況にありました。幕府は老朽化でボロボロ、長州は幕府を敵に回して四面楚歌、薩摩は迷走状態でした。そういう中で幕府の勢力をしのぐには、この薩摩と長州が手を結ぶことを考えて薩長同盟を実行に移したり、大政奉還のビジョンを示したり、またそれを実現していく等、次から次へと日本の進路を考えて行動を起こしていったのが、坂本龍馬だったのです。

坂本龍馬の家は郷士であり、商人であったが元をたどれば、山内一豊が土佐の国主になったときに追い払われた長宗我部元親の部下であったため身分差別で苦しめられていたのだそうです。
その当時、武士以外の層がその実力を認められる道は三つしかありませんでした。

一つ目は、剣術の面で優れた力量を示す。二つ目は、学問の道で才能を示す。三つ目は、お坊さんになって偉くなるかということでしたが、坂本龍馬は友人対して「今、何が大事か」と問いかけて、武士になり剣術の道を極める事が、最も大事だといい、龍馬自身も最初、剣術の道を選び江戸で有名な千葉周作の弟が経営している千葉道場に入って「免許皆伝」となっていったのです。
そこで、龍馬に刺激を受けていた友人たちもせっせと剣術を学んでいき ある程度、剣術の技量が高まっていくと、龍馬は友人対して「今はこれの時代だ」といって 高杉晋作からもらった ピストルを出したそうです。
また時を経て三たび、この友人が龍馬に会ったときに「今はこの時代だよ」と言って懐から出したのが「万国公法」だったと言います。龍馬自身は、常に前向きであり、次から次へと 変わり身の早さと先見の才を持ち自身を変えながら、前へ前へと先に歩いて行くことが出来たのですが、中には、あいつだけが我々をさしおいて、一人でスタスタと先を急いでいるけれども、どうなんだ。自分一人だけ、先を歩いている龍馬のおかげで俺たちは、時間とエネルギーをずいぶん無駄にしてしまった。 あの野郎、殺してしまえ、と先を歩きすぎたために置き去りにした仲間からも命を狙われることもあったそうです。

 そこへいくと西郷のリーダーシップは、全然 違い他人の痛みを 思いやったリーダーシップであったといいます。
その他人の痛みを思いやる西郷の優しい一面に次のようなエピソードがありまして 元治元年(1864)二月、二度目の島流しを解かれて、鹿児島へ帰国する召還船がやってきたのですが、そのとき西郷は赦免使の吉井友実に、「俺だけ帰るわけにはいかん。喜界島によって村田新八も連れて帰りたい…藩が許さんときは、おい(俺)がまた島へ戻る…」こう言って村田を連れて帰ってきたのです。「俺の罪が赦されるのであれば、俺のとばっちりで流刑になった村田新八も赦されるのが当然ではないか」というのが西郷の言い分で、これが死を賭けた西郷の友情なのです。
村田新八も明治十年西南戦争の際、立身出世を絶ち西郷に殉じて城山で戦死しました。西郷という人は、一生傷つきながら、その痛みをこらえつつ、俺も痛いんだから他人も痛かろう、という考えで坂本龍馬のように、けっして他人を置き去りにすることはしなかったのです。
西郷の自己の磨き方というものは、常に一進一退で一歩進んではまた一歩下がる。あるいは一歩後退二歩前進、一旦引き下がるけれども、二歩前に出るという生き方をした人であったのです。そして西郷がよく口にしていた言葉が、「誠の道を歩む」ということと、「人事を尽くす」という言葉だそうです。

如何でしたか、世界の海援隊の坂本龍馬に対して、天を敬い、人を愛すという西郷の生き方、危機管理においては「置かれた場所で、最大の力を尽くす」その力の尽くし方は 無計算で、そういうことをすれば こうなるだろうというような計算はしない。無欲の全力投入の姿勢が他人の心を打ち、人の心を動かしていくのではないのでしょうか? 「人事を尽くして天命を待つ」という、言葉がございます。その尽くす人事というのが、「 誠実一途 」であり「 身近なところから、成し遂げていく 」という西郷の姿勢こそが、時代は違っても、今自分たちに必要とさせるリーダーシップだということを物語っております。
  

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2018年04月03日

◆ 克雪、和雪、利雪 ◆

㈱内田建設 朝礼 平成30年4月3日(火)

テーマ    西郷隆盛に学ぶ生き方

◆  克雪、和雪、利雪    ◆

 最近、SEGOどんと言って幕末の一人の主役であった西郷隆盛の物語がNHK大河ドラマで始まりました。これは、皆さんもご存じ薩摩藩の下級武士にすぎなかった男・西郷隆盛が、名君であった藩主 島津斉彬から島津久光に代わったとき久光に対して物事を善悪で判断し、堂々とものを言ったために大変、嫌われてしまい 奄美大島に島流しという目にあってしまいました。
しかし、時代の要請もあり その後、勝海舟・坂本龍馬らと出会い革命家へと覚醒していき、やがて、明治維新を成し遂げていくという物語でありますが、そんな西郷さんのいろんな解決策について、例え話等を用いていろいろと お話ししてみたいと思います。
 西郷隆盛という男は、いつも困難に出会うと必ず正面から立ち向かったといわれております。
その立ち向かい方にいくつかの方法あったそうです。たとえば、雪国では、人が雪に立ち向かう場合、三つの方法があるといわれております。
その一つは雪に克つという克雪。もう一つは雪と和すという すなわち和雪。そして最後に雪を利用してしまう利雪。この三つの方法がございます。

西郷の生き方を見ていますと、克雪、和雪、利雪の三つがひじょうに上手く取り込まれていまして、状況、変化に応じてこれらを上手く活用しております。
だからこそ、西郷は殺され かかったり、あるいは死にかけたりしても、すぐに蘇ってパワーを再生し見事に生き抜いていくことが出来たのだと思われます。
しかし、西郷という男は 生き返ったときには、もう昔の西郷ではなく、勝てなかった雪に対して、克雪ではなく これと仲良くしようと考えて和雪の方法を取ったり、あるいは雪から利益を得ようと いうように 雪を踏み敷いて、逆に雪の含んでいる活用部分を、上手く取り出すことによって 利雪という方法をとったようにも思われますが、今 の私達が 時代を超えて西郷さんから学ばなければならない 本当のリーダーシップが、ここにある ということをしっかりと学習し当社でも将来に向けこれを、上手く活かしていかなくてはなりません。
  

Posted by 内田建設 at 08:16Comments(0)本日の朝礼