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2021年08月30日

◆ 講孟箚記に学ぶ ◆

㈱内田建設 朝礼 令和3年8月30日(月)

テーマ  講孟箚記に学ぶ

◆ 己れを修め 実を尽くす ◆

おはようございます。今朝は、幕末に吉田松陰がペリー艦隊に密航しようとして失敗し、故郷の長州へ移送され、萩城下の野山獄と杉家幽室で幽囚の身となります。そんな時ではありましたが、囚人や親戚の人達と共に皆の前で中国古典の孟子を講読し、書かれた『講孟箚記』という書物がございます。『箚』は針で刺すという意味で、書物を読む際に針で皮膚を刺し鮮血がほとばしるように肉薄し、あたかも 針で衣を縫うように文章の意義を明確にするという松陰の想いを込めた松陰の名言の中から一つだけ抜粋し本日は『己を修め実を尽くす』という言葉についてのお話をしてみたいと思います。
 原文には、世間の毀誉は大抵その実(じつ)を得ざるものなり。然るにそしりを懼れ、誉(ほまれ)を求むるの心あらば 心を用うる所皆外面にありて実事日(じつじひ)に薄し。故に君子の務めは己を修め実を尽くすにあり。 というものですが、この言葉は世間が人を褒め、貶すことは大抵が実態とは違うものですよ。それなのに、人は貶されることを恐れ、褒められたいとの気持ちがあれば、表面的なことばかりに心を遣う様になり、まごころを尽くして生きようとの気持ちは日に日に薄くなっていくのです。したがって本当に心ある立派な人の務めとして、自分の身を修め、真心を尽くすことにあるのです。と吉田松陰は、まとめております。
そして、もう一つですが、『心なり』といって俗論の見るところは形の上なり。君子の論ずるところは心なり。とも講孟箚記の中にて申しております。
この言葉についても、俗人が見るのは形であり、心ある立派な人が見るのは、心である。と書いてございましたが、何事も表面の事実だけでなくその中に隠れている誠の事実、そう本質である真実という中身をみていきたいものです。



Posted by 内田建設 at 06:25│Comments(0)
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