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2021年05月24日

◆ 心を磨く恕の精神 ◆

㈱内田建設 朝礼 令和3年5月24日(月)

       テーマ  中国古典(論語)に学ぶ

◆  其れ恕か。己の欲せざる所、人に施すこと勿れ  ◆

おはようございます。以前より『論語』というのは、孔子が子路と子貢と顔回という三人の高弟(弟子)を連れて漫遊の旅に出た時、弟子の質問に対して孔子が答えてくれたものを 孔子の死後に 弟子たちが記録した書物である というお話をさせていただいたことがあります。
本日は、そのような中の問答で 子貢問ひて曰く、「一言(いちげん)にして以て終身之を行うべき者有りや。」子曰く、「其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。」ある日のこと、孔子の弟子の一人である子貢が、「ただ一言で、一生行ってゆくに値する言葉がありましょうか。」と尋ねました。 
孔子は、「それは、恕だよ。」と答え、「 恕というのは、自分が人からされたくないことは、人にもしてはならないということだよ」と付け加えたということなのです。
これは、『論語』の衛霊公にある 孔子の言葉でして「 自分が人からされたくないことは、人にもしてはならない 」 誰にもわかる ごく簡単なあたりまえのことですが、実際に行うことはなかなか難しいことだと言っております。
人の命や物を奪うことなど大それたことをする人は滅多にはいません。
しかし、相手の悪口を言うなど、機嫌の悪い時などに八つ当たりをする。また、約束を守らない、自分勝手な行動をする。そんな風に考えていくと、「自分にとってしてほしくないこと」を、全て人にしない人が世の中にどれだけいるのでしょうか? 殆んどいないのではないでしょうか。「恕」の精神を実行するということは一生をかけても大変難しいことなのだと思います。
では、「恕」を実践していくために必要なことは何でしょうか? 相手の嫌がることをしない心を持つ。そうですね相手の気持ちを善意で受け止めてあげる心を持つということなのでしょう。 当社の経営理念のはじめにくる 人づくりと言う言葉の中に、心の鏡を磨き一点の曇りなき澄みきった気持ちになるようにありますが、「 人間は心の中に一枚の鏡を持っている 」という話があり、その鏡が磨かれていれば、世の中の出来事や悲しい人、苦しい人の気持ちが映し出されるのだそうです。 
ですから、人の心が映らず 無関心でいるという人は 心の鏡を曇らせているからだということなのでしょう。では、どうすれば その心の鏡を磨くことができるのでしょうか? その磨くための道具となるのは何になるのでしょうか?
色々とあるのだと思われますが、私が思うひとつには人としての心の温かさなのだと思えてなりません。お互いの人々が温かい心で触れ合う…。そんな時に心の鏡が磨かれ、相手の気持ちを受け止める心が磨かれ「恕」の精神が育まれて実践できていくのでしょう。まさに、思いやりの心を持ち己の欲せざる所は人に施すなかれ、人の温かさを感じ素直な気持ちで心の鏡を磨いて一点の曇りなき澄みきった気持ちとなりたいものです。私は こうして、時々 『論語』の中から孔子の言った言葉を当社の朝礼でお話することがあります。
約2500年前の時代に孔子は生きた人なので、彼の生きていた時代と私たちの生きている時代では、政治、社会、生活など様々な面が大きく変わってきております。
しかし、彼の残した言葉は2500年経った今でも確実に私たち日本人の中に息づいております。それは彼の教えが普遍的で本質を突いているからに他なりません。
これからも、『論語』の中から孔子の教えを出来るだけわかりやすく お話してまいりたいと思っておりますので、みなさんと共に心の原点に触れてまいりましょう。
  

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2021年05月07日

◆ 哀極まりて復、盛んに ◆

㈱内田建設 朝礼 令和3年4月26日(月)
 
◆ 吉田松陰の幽囚録に学ぶ ◆

 おはようございます。本日のお話は、幕末の日本の指導者たちに大きな影響を与えた吉田松陰という人からの学びについてお話をしたいと思います。 

皆さんも既に ご存じのように多くの幕末の志士たちに影響を与えた吉田松陰という人は、鎖国が解かれた時、下田の海に浮かんでいた ペリーの黒船に弟子の金子重之助と共に小舟で近づき乗船しアメリカに連れていって欲しいと依頼しましたが、拒否をされました。    
そして、その後、その行動により牢獄につながれるという結果になるのですが、吉田松陰としては、国家存亡の危機に何もしないで ただ、見ていることなど私には出来ぬ、先ずはアメリカに行って アメリカの先進技術を学び やがて、対等な立場に持っていき 対等な お付き合いをするのだと考えに考え抜いた行動だったのです。日本国のことを考えて公の心をもっての考えは素晴らしいことでしたが、結果的には密航を企てたという罪に問われ、長州の野山の獄に大罪人として収監されことになりました。
この時、松陰は『かくすれば、かくなることと知りながら、やむにやまれぬ大和魂』という句を読んでおります。
こうすれば、こうなるということを分かっていたのだ。  しかし、国家危急の今、何もしないでいるよりは、国家存亡の危機を我が事考え、我が事と思い実行されたのです。 

ここで、私が言いたいのはこうすれば、こうなると分かっていても また こうすればよいと考えている人間はどこにでもいるが、それを行動に移すことが出来る人とそうでない人の違いであります。どんなよい事でも実行しなければ絵に書いた餅であるようにいつまで経っても食することは出来ません。
 その時、どのような行動がとれるのかということはとても大事なことなのです。因果応報という言葉がございます。原因があって結果が出る。そしてそれに応じた報いが返ってくるまさに因果応報なのです。 良い事をすれば、良い事が返ってくるというのは自然の法則でごく当たり前のことなのですが、これが なかなか時間のかかることなのですね。その反対に悪い事をすれば、簡単に自分のもとへ返ってきてしまうのです。
しかし、頑張り屋の吉田松陰先生は獄舎の中で「幽囚録」という書物を書きこう言いました『哀極まりて復た盛んに、乱極まりて又治まるは則ち物の常なり』この言葉は、究極まで衰退してもまた盛り返す。究極まで乱れてもまた治まるものです。このことは、ものの常なのですから堕ちるところまで堕ちたとしてもあとは、盛り返すだけだと常に前を向いていれたのです。
この言葉 同様われわれも春になれば芽が出ることを忘れずに頑張ってまいりましょう。但し、春は誰にも訪れますが、しっかりと種を蒔かなければ芽がでてこないということも胸に深く刻み前を向いて歩いてまいりましょう。
  

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