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2020年07月30日

◆ 不争の徳の意味 ◆

㈱内田建設 朝礼   令和2年7月30日(木)

      テーマ   老子に学ぶ人間学

◆  大国は下流なり  ◆

おはようございます。本日は、中国思想の老子六十一章の『天下の牝』というお話をしてみたいと思います。

大国は下流なり。天下の交なり。天下の牝なり。牝(ひん)は常に静をもって牡(ぼう)に勝つ。静をもって下となればなり。故に大国をもって小国に下れば、すなわち小国を取り、小国を以て大国に下れば、すなわち大国に取る。故にあるいは下りて、しかして取る。 大国は兼ねて人をやしなわんと欲するに過ぎず。小国は入りて、人に仕えんと欲するに過ぎず。それ両者はおのおのその欲するところを得んとせば、大なる者はよろしく下ることを為すべし。ということが書かれておりますが、この意味を申し上げますと大国というのは川に例えるならば下流であるのですから、諸国はこれに合流しようとします。言い換えますと天下における『女性』であり、諸国はこれに慕い寄るということで、女性はみずから手を下すことなく男性を意のままにする。つねに受け身であるからこそ、それが可能となるのだと申しております。
大国が小国にへりくだるならば、小国はおのずと大国に帰服する。小国が大国にへり下るのであれば大国はおのずと小国を受け入れるであろうと申しております。
大国は、天下の人民を庇護して、養いたいと願っているのであり、小国にあっては大国の庇護に頼って自己の安全を保ちたいと願っているのです。
両者の願望は、本来 矛盾するものではないのです。まず、大国がへりくだるのがよいのです。それでこそ、双方の願いは達成できるはずだというのです。
ようするに、目的を達成しようと思う時、力のあるものが ヘリ下ってお願いすれば、力のないものはそれに従ってくれるので目的は達成されるのです。
ですから、力のあるものがへりくだって力のないものにお願いするのがよいのです。何のために力をもっているのか? 正しい道を歩もうとするのであれば、強がらないで相手の下手に出るのがよいのです。これを、不争の徳と言って立派な武士は強がらないで、相手の下出に出るとよいのでしょう。常に争う事なく目的を達成していくという事なのです。 本当に力のある人物は、常に明るくへりくだって多くの人々のために、持っている力を使っていただくことが理想なので皆さんも力を蓄え、仕事に地域で不争の徳を実践してみて下さい。
  

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2020年07月29日

◆ 清冽な倫理感を持つ ◆

㈱内田建設 朝礼  令和 2年 7月29日(水)

      テーマ    菜根譚に学ぶ

◆  清冽な倫理感  ◆

 本日は、タイトルに清冽な倫理感としましたが、中国は民の時代(1573~1619)に洪自誠という人がのこした随筆集を読んでみると前集と後集に分かれ前集では、社会生活上の心得を説き後集では世を捨て風月などの自然を友とするような楽しみについて前集と、後集あわせて360ほどの短い文章で述べているが、この随筆集を『 菜根譚 』といい 当社の朝礼においても、『 素心 』として、 素直な心、飾らない心のお話を、以前にも いくつか してきたことを覚えておられるでしょうか? そんな中で、本日も一つだけ 選んでお話してみたいと思います。
『 感謝も恨みも受けぬが一番 』とされているお話です。 一人を喜ばせれば、他の人は恨みをいだきます。 人を喜ばせるより、感謝と恨みもともに、忘れてもらう のが一番です。一人の利益をはかれば、他の人は被害を受けたと感じるので、人の感謝を期待するより、恩も仇も水に流してしまうほうが、最もよいのだと書かれております。 これは、人に恩を売って歓心を得ようとする作為は、人間関係のどこかにひずみというものが生まれるので、相手は表面では感謝しているような姿をみせても内心では屈辱を受けたと思っているかもしれないし、次には何がくるのかと警戒をしているのかもしれない。と内面的な心情について詳しく触れています。そして、恩着せがましいような態度に激しい反発を感じてくるのが常であるため、こういった浅はかな計算の中によりよい人間関係は生まれるはずもないというのです。よって、『 感謝も恨みも受けぬが一番 』といっておりますが、私自身はそうではなく 敢えて言わせてもらうならば、良い事も、悪いことも清濁併せもって吞みこむ老子の発想にある、谷の発想が一番よいと思えてまいります。
加えて、私が 何時でも思っていることなのですが、人の話は善意で受け止めてあげることが一番大事なことなのです。善意で受け止めれば人間関係も悪くなることはないでしょう。それを、悪意で受け取ってしまうとその先の人間関係を損なってしまいます。勿論、中には悪意で言ってくる人もあるでしょうから、その悪意を見抜くことも大事ですが、悪意を見抜きつつも善意で受け止め対応してまいりましょう。 これこそが本来、人として持たなければならない清冽な倫理感なのだと思います。
  

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2020年07月28日

◆ 知命・知礼・知言とは ◆

㈱内田建設 朝礼  令和2年7月28日(火)

テーマ    親しき中にも礼儀あり

◆  『知命』『知禮』『知言』  ◆


 おはようございます。本日は、論語の中でも堯曰(ぎょうえつ)第二十にございます孔子曰わく、命を知らざれば、以て君子たること無きなり。禮を知らざれば、以て立つこと無きなり、言を知らざれば、以て人を知ること無きなりという言葉について少しだけお話をいたします。
 意味を申し上げますと、孔子曰くというのは、孔先生がおっしゃった「天命を知らなければ、君子たる者の資格がない。 礼儀を知らなければ、世の中に立つことが出来ない。言葉を知らなければ、人を知ることが出来ない。」ということなのですが、人の行いには、どんなに正しい行いをしても、行いにふさわしくないことを、してしまうことがあるといいます。
そんな時に、怨んだり、怒ったりしてしまうことがあるのですが、これは己の天命として天から与えられた天分と、もともと己の持っている 自分の才能という領分があります。
そこのところを、しっかりと理解して 自分の役割というもの勉強しながら、社会の秩序、国家の法則・人倫の規範をといいますから世の中の仕組みを掴み知り礼儀正しく、人の発言もよく聞き真意を掴んだうえで、正しい判断力を身につけ、正しく対処していくことが、君子たるゆえんであると、知ってほしいと教えております。君子というのは人間性の豊かな人間であって心にゆとりを持っているため、困ったときも八つ当たりをしないと記されております。
そして 、よく君子豹変すという言葉を聞きますがこれは、君子のような立派な人物は豹の皮の斑点が黒と黄色ではっきりしているように、間違えに気づいた時などは、スパッと心を入れ変えて自らを変革することが出来るということをいったものですので、間違えに気づいたら正しい道にすぐに戻るというのは決して悪い意味ではないということも併せて覚えておいて下さい。
  

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2020年07月24日

◆ 喜びの三段階 ◆

㈱内田建設 朝礼 令和2年7月22日(水)

     テーマ   人間力を磨くために

◆  喜びの三段階  ◆

 今から、20年程前に松下政経塾第1期生である林英臣先生の書かれた平成の志士へ 日本復活というタイトルの本を読んだ時に 人物を育てる教育を興すと書かれた中に非常に印象に残ることが書かれていたのを記憶しておりまして、中身は本日のタイトルにあげた『 喜びの三段階 』という言葉です。

 著書に書かれております言葉の中に もともと人間には、喜びの三段階があるといいまして、赤ちゃんとして生まれた時、まず味わう喜びは、“ 何かをしてもらう喜び “です。これは、おなかが減ればお母さんからおっぱいもらう、おしめが濡れたら換えてもらうという、まず何かをしてもらう喜びの段階です。
次にくる第二段階は、はいはいができるとか、あるいは何かにつかまって立って歩くことができる。 そして、言葉を話すことができるという“ できる喜び “の段階です。ここまでの喜びの第二段階までについては、他の動物も同じで生きていくためには、出来るようになるのです。人間以外の動物については、それ以上の感情もそれ以下の感情もありませんが、人間のみが、次にくる三段階目の喜びがあるというのです。

さて、ただ今申し上げましたように このあと次に続く三つ目の喜びの段階は、“ 人が喜んでくれることを自分の喜びとする “という段階になりまして、こういう利他の感情はおそらく人間だけが持っている精神でして、人間は人が喜んでくれることを自分の喜びとするという気持ちが持てる動物だというのです。 そういう精神がなぜ必要なのかというと、人間は他人が喜んでくれるから自分を確認できるのだそうです。
 誰かのために役立っている、誰かに喜ばれているという喜びによって自分がこの世に存在する意味、価値、役割というものを確認していくのです。
誰かに認められるということ、誰かに必要とされているということほど、人間として生まれて嬉しいことはありません。

こういう段階に人間は、一歳を超えるか超えないかの頃に、早くも至っているというのです。 もう、何年も前に当社の朝礼でも述べましたが小さな赤ちゃんが、何か身の回りの物を、親のところへ持っていくと、親は「どうもありがとう。お利口さんだね。」と褒めながら受け取る。 そうするとその小さな子供は親の所へ何かものを運んで喜ばれたということを学習するという訳なのです。
そういう相手の喜ぶ様子をみて自分の幸せとする感情、これを素直に伸ばすことができれば人間として豊かな、そして世の中のお役に立てる人生が開花できるはずなのです。
 ところが、成長過程で往々にしてそういう感情は無視をされたり、あるいは「余分なことをするな」とばかり抑圧されることが多いのです。
そして、「そんなことをする暇があったら勉強しなさい」という形で、せっかく人のお役に立とうとする感情が十分育たず、しぼんだまま終わってしまう。
 しかし、第一段階と第二段階のしてもらう喜びや、できる喜び というのは、しっかりと育ってまいります。ですから、他人への依存心がやたらに強かったり、あるいは試験秀才としての勉強のみができれば事足りるとする、偏った人格が育つのではないのでしょうか?自分は、何のためにこの世にいるのか、その答えが分からない。 なぜ、生まれてきたのだろう。 自分は何をしたらよいのか?それが見つからないほど不安で、寂しく、切なく、辛いことはないのです。
 私は、若い頃 既に卒業していた 高校の先輩に 聞いたことがあるのですが、人間というのは、大きく分けると 他の人の役に立って生きるのか? また、他の人に迷惑を掛けていきるのか?の二つだと思うよと言われました。
 そして、その先輩は どうせ生きていくのなら 他の人の役に立って喜ばれる人生をおくりたいものだねと 私に向かって言われたことが今でも、鮮明に記憶に残されております。今考えるとその先輩は、成長過程において、おじいちゃん、おばあちゃんのいる温かい家庭に育ち、“人が喜んでくれることを自分の喜びとする“という『喜びの三段階』の三つ目の喜びが身についていた人なのだなあと思います。
 今後、みなさんが お子様や、お孫さんを育てていく中で ″喜びの三段階 ″を捉えられるよう 三つ目の喜びの段階をしっかりと経験してもらい、素直で豊かな世の中に役立つ人生を開花させてあげて下さい。
  

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2020年07月16日

◆ 良心に忠実に生きる ◆

㈱内田建設 朝礼  令和2年7月16日(木)

テーマ   論語に親しみ生きる

◆ 吾道一以貫之 ◆

おはようございます。本日より、また新しい仲間が加わりましたが、共に仕事を通じてお互いが切磋琢磨してよい人生を送ってまいりましょう。さて、少し前から論語を少しずつ学んで、たった一度しかない人生を豊かにしていこうというために朝礼にてお話させていただいております。

本日は、『 わが道、一を以て之を貫く 』…これは、よく知られた言葉であり、響きもよい。過去の朝礼では私の生き方は、ただ一つの道理をもってこれを貫くとご説明させていただきましたが、これは孔子が弟子たちに囲まれ、そのうちの一人、曾子と話している時に、孔子が言った言葉でして、意味を申し上げますと
『 私が歩む道、私の生き方は、一を以て貫くであることを、君はわかっているね 』と、孔子は言い、曾子は『はい』とだけ答えたのだそうです。その時、孔子は頷いてその場から立ち去ったといいます。 
まわりにいた弟子たちは、まるで禅問答を聞いているようで、サッパリわからなかったので曾子がそこで、説明してあげたと書かれており、「先生が言われた『 わが道、一を以て貫く 』とは,自分が 生涯貫いてきた一つの原理原則は、〃忠恕〃であるということなのだ と書かれておりました。 忠は心の持ち方、自分の良心に忠実に生きることであり、恕の本来の意味は赦すということだが、孔子は他人への思いやりと表現されております。」つまり、先生が一貫してこられたのは、誠心誠意、相手への思いやりの心を、また真心をもって、生きてこられたのだということを伝えたのだそうです。
そのあたりを考えてみますと、『わが道。一を以て之を貫く』とは『忠恕』といって『忠』は、良心に忠実に生き、『恕』は心から赦すことができる思いやりをもって生きるのであるから、『初一念』とか『初志貫徹』のような強いだけの覚悟ともいささか、意味の違いを感じて、真心を以て 生きている『忠恕』のようにバランスを備えた生き方を貫いていくことを、学んでいきましょう。
  

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2020年07月14日

◆ 仁者の失敗時対応 ◆

㈱内田建設 朝礼  令和2年7月14日(火)

     テーマ  論語に親しみ生き方を学ぶ

◆  子曰人過也  ◆

 おはようございます。今週も先週同様、論語に親しみながら人としての生き方について論語に学びながら、お話してみたいと思います。
 タイトルにあげてございます『 子曰く人の過ちや、各々そのたぐいに於いて過ちを観れば、ここに仁を知る』というお話がございますが、これは失敗の対応の仕方でその人の優劣が判定されるというものです。と説いております。
 「人は山につまずかずに、蟻塚につまずく」という中国の言葉があるようでして、人間は誰でも過ちというものをおかします。
それも、大きな失敗よりは、小さな失敗をというのが、誰でも経験するところでして、孔子はたくさんの弟子に囲まれ、弟子たちの失敗を数多く見てきたせいか、こんな面白いことを言っております。「過ちというものは、その人らしい過ちをする 」と、「 せっかちの人は、あせって失敗をし、鈍感な人は折角のチャンスを見逃して失敗をする 」そして、その責任の取り方で、その人の優劣がわかってしまうのだと申しております。
孔子は、それに関連し部下の失敗に対する上司の対応の仕方で、その人物が「仁者」的であるかどうか、それを判定することが出来るとも述べております。

 感情的に叱り飛ばし、上司としての責任を回避する人物なのか、それとも二度と同じ間違いが起こらないように、適切、冷静に対応した人物なのか、それによって自然にまわりの判定が下されるという事なのです。

これを、学而第一から始まり堯日第二十まである論語という書物の中において 里仁第四の中において 過ちは、その人らしい過ちをするだから、その失敗の対応の仕方で人柄、能力などが判定される「仁者」は失敗をおそれないと言って説いてくれております。孔子の名言は、2500年以上経った今でも新鮮に感じられますね。人としての道を外すことなく私たちに語り継がれる論語をもっと愛し、親しみ、生き方の基本というものを、我々も仕事を通じて、これからも、学んでまいりましょう。
  

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2020年07月10日

◆ 論語に親しんで学ぶ ◆

㈱内田建設 朝礼  令和2年7月10日(金)

テーマ    論語に親しんで学ぶ

◆ 子曰、与に言ふ べくして之、与言、失人。 ◆

 おはようございます。本日も生き方としての基本である 論語について親しむよう少しだけお話いたします。衛霊公第十五に出てまいります原文の書き出しを読んでみますと… 子曰く与(とも)に言うべくして之と言わざれば、人を失う与(とも)に言うべからずして之と言えば、言を失うという書き出しから始まりますが、意味を申し上げますと 要するに「言うべき時に言わないと、人を失うし言うべきでない時に言うと言を失う」ということで信頼できる人には真実を話しなさい。そうでない人に真実を話すと災難が起こりますよ。ということを言ったものです。
 大事な時に何も発言をしないのは卑怯であって信頼を失いますよ、それと機が熟さない段階で勝手に発言すると、「失言問題」を引き起こしてしまうかもしれません。ということなのです。要するに言うべき時というのは、我々のトラックなどについている『TPO』のスイッチと同じでTPOを入れるタイミングを間違えないように考えて下さいということなのです。
一つの例え話として『出会い』のチャンスを逃すなというお話を紹介いたします。もうこの話は 何回も聞いたことのある人もいるかもしれませんが、徳川家の剣術の指南役である柳生家には、『 小才は縁に出会って縁に気づかず。中才は縁に気づいて縁を生かさず、大才は袖すり合うた縁をも生かす 』という家訓がございます。折角会合に出て素晴らしい人と親しくなれるチャンスを逃がして しまったり、誰 彼となく出席者全員に名刺を配って 失笑を買うのもいただけないお話で、その極意をしっかりと掴み心得ていい人との出会いをものにしていきなさいというものです。
  それと、もう一つは違う説で問題が生じた時は、信頼する人には秘密の部分も含め真実を話しておくことのすすめというお話です。あとで、「あいつは水くさい」「あいつは俺を信用していない」と言って離れていってしまうおそれがあるというのです。また、それと反対に信頼する価値のない人に、うっかり秘密を漏らしてしまい、失言問題として 大きな災難が起こってしまう可能性があるので、その見極めが大切ですよというお話です。
言葉は人なり、と言って 言葉づかいによって周りを愉快にも不快にもしてしまうものです。論語に親しみながらも、みなさんで生き方の勉強をしていきましょう。
  

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2020年07月09日

◆ 正しい道筋を通す ◆

㈱内田建設 朝礼   令和2年7月9日(木)

   テーマ   論語、衛霊公第十五に学ぶ

◆   君子、義を以て質と為す   ◆

 おはようございます。何年か前に論語を話した中に仁義というお話の中で、仁とは 左半分の にんべん に二と書く意味を、あなたと私が相対するというようなお話をし、義とは上半分を羊とし羊は群れを成して歩く姿が綺麗だ とても美しい だから、羊に大と書いて美しいと読むというその羊に我と書いて義となります。
これは、礼儀正しい美しい姿であり、私利私欲のみに生きるのではなく正義や大義に生きる生き方が義であり、仁義とは仁という真心があり義の心が芽生え、義という大局を導くといって正義の心のお話をしたように記憶しておりますが、仮名論語の解説を読んでまいりますと正義、信義、仁義、恩義、道義など「義」のつく言葉はたくさんあるが、「義とは何か」義とは、人の踏み行う正しい道筋をつけることだと説明されておりまして、それが守れないと「不義」「不義理」などと「不」がついてしまうようです。
たとえば、男女関係でも人の道を踏み外すと、戦前までは「不義密通」と呼ばれ江戸時代であれば、発覚すると打ち首の刑に処せられたほどであります。
そこで、孔子は「義」について「人の踏み行う正しい道筋を通すなら、根底に正義感がなければなりません。不正を見逃して、なんで信義、道義が実践できるのでしょう。それでは、大義名分というものが立たないではありませんか」と申しております。
したがいまして、人格者たるものは義を基本とし、筋を通し 礼儀正しく行動し、謙遜の心で発言し誠実さで自分というものを完成させるのです。と言っておりますが、そんなことやろうと思っても中々、出来ません。しかし、やろうと思わなかったら絶対に出来ません。ですから強く思う 強く願うところから始めてまいりましょう。
  

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2020年07月08日

◆ 人生は、一番勝負 ◆

㈱内田建設 朝礼  令和2年7月8日(水)

     テーマ   座右の銘に学ぶ

◆  坂田三吉の言葉  ◆

おはようございます。 藤井聰太という人をご存じでしょうか? 2016年に14歳2か月で 史上最年少のプロ入りを果たした 将棋界では将来を嘱望された天才棋士でして 今から3~4年前に、中学生でプロ入りを果たすということも凄かったですが、プロ入りから無敗のまま公式戦最多29連勝という記録を樹立した文字通りの天才棋士ということで日本中に名を轟かせた一人の好青年です。

本日は、その藤井聰太君のお話ではありませんが、その将棋界の伝説の人として有名な坂田三吉という人のお話であります。
16歳で父を亡くした坂田三吉が本業の草履作りではなく 将棋大会に出ては優勝景品を現金化したり『賭け将棋』をしたりして生きていたという関西は堺のお話でして その若者が、二歳年上の関根金次郎に完膚なきまでに敗北し、天狗の鼻をへし折られ数日間、寝込んでしまうという 有名な伝説がございました。 そして、その屈辱がまた 負けず嫌いの坂田を発奮させ大阪随一の指し手になっていったという日本の将棋界では、至宝と呼ばれた人のお話です。

もちろん基礎学習の欠如による坂田では、天才的な「地力」を以てしても 
その「力」だけでは、登りきれない絶壁のような「理詰めの山」がこの世界には存在していたようです。 43歳の時坂田は在阪新聞社、有力者の『打倒東京』悲願に押され、遂に上京していき決戦の舞台に立っていくのでありますが、この時の将棋のやりとりを小説家の菊池寛が、坂田三吉の言葉を聞き、座右の銘として 後世に残していることについて解説して、みたいと思います。王将の歌に出てくるように、『 明日は~東京に出てゆくからは~何が何でも勝たねばならぬ 』と関西人が関東に対する対抗心というかライバル心が見事に描かれているところがとても面白いお話です。
そして小説家菊池寛の″人生は一番勝負なり、指し直すこと能わず ″という言葉が、ございますが、稀代の将棋名人とうたわれた 坂田三吉は、まずいところに打ってしまった銀を見て、『 ああ銀が泣いている 』と言ったそうです。

これは将棋だけでなく人生もまた一回限りなので、指し直しはきかない、悔いのない人生を送るべきなのである。と言っております。
棋士というのは、生き方において、その 瞬間 瞬間を真剣勝負で生きております。我々も、普段の生き方、仕事に向かう姿勢について ああ銀が泣いていると言わせることのないよう真剣に、指し直すこのないような生き方をしなければなりません。それには、今を大切に生きていくことです。今(いま)というのは、息する間の(いま)と、命の間の(いま)といって一瞬、一瞬を大事に生きて悔いのないような未来を自分自身の手で変えていくことなのです。

したがって、坂田三吉の言葉である 銀を泣かすことなく 菊池寛の座右の銘にあるように、〃 人生は一番勝負なり、指し直すこと能わず 〃といって悔いの残らない人生を、これからはみなさんが 自分自身の手で切り開いていくことを望みます。
  

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2020年07月07日

◆ 大智を理解する ◆

㈱内田建設 朝礼  令和2年 ㋆ 7日(火)

     テーマ   人生を開く武将の言葉

◆ 機知富んだひと言 ◆

 おはようございます。本日は掛川城5万石の城主から土佐24万石の城主に出世した山内一豊のお話です。山内一豊という人は、妻がへそくりで馬を買ってくれたことで有名ですが、実際に出世のキッカケを掴んだのは、関ヶ原の合戦の時でして、合戦となる前に一豊はどちらに味方するのかを大いに迷っていたのでした。
 そんな時、一豊の先輩に堀尾忠氏という人物がいました。彼は若くても大変、才能のある人物でした。家康の開く会議の前に 一豊は、その堀尾忠氏に聞いてみました。この度の戦に対して、あなた様は、どうなさりますか?
すると、忠氏は「私は家康様の味方をする。そして、その証をするため兵糧ぐるみ城をそっくり家康様に差し上げる。また、人質も出す。そして、私自身は先駆けとして勇敢に戦うつもりである」と言ったそうです。
その言葉を聞いた一豊は、「なるほど」と感心した一豊は、家康の前に行くと真っ先に堀尾忠氏の言った言葉を、そのまま 自分の言葉として発言したのです。
徳川家康は、この言葉に大変、感心したそうです。帰り際に忠氏が、「今日は、おぬしにしてやられたな」とからかって言ったといいます。
一豊は、「 優れた人のいうことを横取りすることを、大智というのだそうだ。今日の私は大智だった 」と言ったそうであるが、忠氏は やはり 優れた人物でありそんな一豊を咎めることもなく二人で大笑いをしたという。
堀尾忠氏という賢者の言葉を使って掛川5万石から土佐24万石にのし上がったという山内一豊のお話であります。
今日の話を聞いて、「よし俺も」真似してやれ という考えを持つ人がいるかもしれませんがこの大智という考えは、山内一豊も 堀尾忠氏も お互いが気心も知れ優秀な人物でしたので その後、怨まれることもなく大笑いで済んだのです。毎度々自分の考えも持たず、こればかりやっておりますと 自分というものを、見失ってしまい 誰からも相手にされなくなるという点についても、よく考えてから行動して下さい。 
また、そのおりには 自分がその考えをよく理解して自分自身の言葉として自信をもって発言していきましょう。
  

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