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2018年03月22日

◆ 不怨天、不尤人 ◆

㈱内田建設 朝礼 平成30年3月22日(木)

テーマ     論語に学ぶ生き方

◆  不怨天、不尤めず  ◆

 おはようございます。本日は、「論語日めくりこよみ」といって、佐賀県は多久市の市長である横尾俊彦さんが、多久市の子供の教育にといって、発行された日めくりカレンダーに書かれている内容についてお話しをいたします。

ここにある 日めくりには、不怨天、不尤人(憲問第十四)と書かれており何の事だかさっぱり わからないと思いますが、これは天を怨みず、人を咎めずと読みまして論語の中の憲問第十四のところに書かれている意味をさしているのです。と理解することが出来ます。勿論、ここの部分だけ捉えるのだけでなく、この前後の文を読んだ中で理解しないといけません。
前にも言ったことがあるように子というのは、先生という意味です。ですから孔子といったら孔先生という意味なのです。そして、前にも言ったことが、あるように論語というのは孔子が、孔子の弟子にあたる子路と子貢と顔回を連れて仕官の道をさがし諸国漫遊の旅に出た時に言った 問答について書かれたものであります。ですから、ここでは 子曰(しのたまわ)く我を知ることなきかな、子貢曰く何すれぞ、それを知る事なからんや。そこで、子曰く、天を怨みず人を咎めず、下学して上達す。我を知る者は其れ天か。
ここまでの、一つの流れを見ないと本当は解説できないことになるのですが、一連の流れの解説で申し上げますと
孔子たち一行が仕官の道を求めて旅の途中で、孔先生が仰った、孔先生というのは孔子のことです。「私を知ってくれるものがいないねえ」ともらされた。子貢が驚いて「どうして先生のような方が世に知られないというような事がありましょうか」と言った。そこで、ここに出てくる言葉の登場となるのであったが、「私は知られてないからといって、天を怨んだり人を咎めたりはしない。私は身近な低いところから学び、だんだんと天理にしたがい高いところにのぼってきたのだ。私を本当に知ってくれているのは、まあ天なのかなあ」と言ったそうです。これが天を怨みず、人を咎めずの解説なのです。まあ、このようなあたりまえでも、納得いく人の道を教えている問答が論語なのです。



Posted by 内田建設 at 15:26│Comments(0)
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