
2022年08月01日
◆ 韓非子に学ぶ威厳と愛情 ◆
㈱内田建設 朝礼 令和 4年8 月 1日(月)
テーマ 心の的を射るために
◆ 威厳と愛情どちらが有効? ◆
おはようございます。東洋思想家の林英臣先生の『心の的を射る人・外す人』という著書の中に「母親が子供を愛するのは、父親の倍ほどあるのに父親の子供への命令は、母親の十倍も効果があるのはなぜだろうか?」さらに、役人は人民に対して愛情を持っていない。だが政令の効力は、これまた父親の万倍も高いし、母親は子供を溺愛してしまうので 指導に行き詰まるが、役人は威厳というものを用いることで人民というものを服従させられる。と書かれております。これを読むと威厳というものと愛情というもののどちらが有効的なのかがハッキリと分かってまいります。
そして、両親が子供に望むこと とは生活においては安全と繁栄ですが、操行においては罪を負ったりしないことだと申しております。……ところが、君主が人民に期待するのは、危機には命を懸けて国を守ってくれることであり、平和の時には、力を尽くして真面目に働いてくれることであると申しております。
親というものは、大変 深い愛情を注ぎ子供に幸せになってもらおうとしても子供には 分かってもらえずにおりますが、君主というのは人民に愛情をかけなくとも、死力を求めた命令が行き届くようです。 真のリーダーたる者は、このような人間の実態を知っているというのです。
したがって恩や愛情の心を養うことよりも威厳に満ちた権勢の増大に努めるようになるのですが、これらの話を聞いておりますと何かモヤモヤとした気持ちが心の中に起こってまいります。何故かと申し上げますと人間とはこのように生きるべきである。また、このように生きなければならないという孔子の理想とする教えのような 性善説ではなく これは、法家思想の韓非子という性悪説に学んでいることを申し上げているからなのです。
人間とはこうあるべきですと性善説に書かれ正しいことだけを申し上げている『論語』などとは違い 人間とは神と悪魔の中間に生きており 人間である限り誰もが、不完全で怒りや妬み私利私欲の感情を持ち『中』や『常』といい中程度の常人として、生きる我々の道筋を 組み立てようとしている『 韓非子 』という性悪説に基づく冷徹な思想家の考えだからです。人間の本性は利益を 求め害を避けるものと考え、法律を国家の基準として定め、賞罰を与えることで厳しく守らせるという法治主義を説いたものが『韓非子』というものなのです。
したがいまして『韓非子』を学べば、「人間とはこういうものだ」という現実がよりよく 掴めてくるのですが、この後、それをどのように生かしていくか?と考えた時に、人の心 いわゆる人心掌握の極意を学ぶために人を動かすための七つの術である『七術』を活用とすれば、私のような頭の悪い経営者でも人並みとなれるのかもしれない事に気が付くこともあるのです。
その七術のはじめである その一には『参観』が出てまいります。この参観はよく授業参観という言葉に出てくるように自分の目で確かめるという言葉なのです。 組織が大きくなるとトップが現場から離れるようになり、ご機嫌取りの部下の心地よい情報しか入らなくなるため 自分の目で確かめる『参観』が大事となってくるという訳なのです。
その二には、『必罰』が出てまいります。これは軽い罪を重く罰するというように必要な時は例外を作らないような罰則を与えることでマナーを守らせることで昔、諸葛孔明が特別に目をかけていた若き将軍・馬謖が軍令違反を犯してしまった時、有能な馬謖を斬罪に処したことがあった。愛する部下を斬らざるを得ない悲運に涙したことがあった。これが『泣いて馬謖を斬る』の真相なのです。
そして、その三に『信賞』というものがあります。文字通り必要な時に罰を与えるというならば、頑張って成果を上げれば認められるという信頼が得られるような功績を讃える賞を、『信賞』としてあげております。
そして、その四に『一聴』といって一人ひとりに発言させ、会議等でも それぞれに責任を持たせどんな小さなことでも責任が伴うことを教えております。
その五には『詭使』といって、トリックを用いて情報を入手し相手を欺くことで懼れさせ相手に何でこんなことまで知っているのだろうと思わせるのがある。
さらに、その6『挟知』といって、切った爪をこっそり隠して知らないふりをして「 爪が一本見当たらぬ、急ぎ探せ 」と命じた。慌てた近侍らは、こっそり自分の爪を切り「ここにありました」と差し出したが、そこで近侍の不誠実さを察知したといいます。
そして、その七『倒言』といってわざと逆のことを言ってみて、どちらが真実かを確かめるというものがある。これに似た話が日本の忠臣蔵にもある。有名な赤穂浪士の討ち入りの前、大石蔵之助は、討ち入りをやらぬ素振り見せ 本心を隠し仲間の反応確かめていたようなのです。真に仇討ちを志す者ならばそれに憤慨するはずであるが、威勢はいいが実は、逃げたがっている者なれば、ホットすることになってまいります。
赤穂浪士の討ち入りとは命がけであるので、本当についてくる者とそうでない者を内蔵助は 韓非子の『倒言』を使って選り分けたといわれております。
如何でしょうか? 諸子百家の思想には『 論語 』ように人間として正しい道はこうであるという道家思想や 法による厳格な政治で君主の権力を強化し、富国強兵をはかろうとする 本日お話をしました 法家思想の『韓非子』を学んでみますと人生、山あり谷ありということが分かってまいりますが、その山も谷もさらに深く大きな谷で受け止めてしまおうというのが、『老子』の発想であり、無為自然…あるがままに自然に逆らわずに暮らすべき、背伸びをする者は長く立っていられないし、大股で歩く者も長くは歩けない 現実を現実としてあるがままに受け入れ、物事をそれが進みたいように、自然に前に流されてというのが、老子の谷の発想ですが、誰が見ても頼りなさそうな人が商売において成功していることがあり、反対に頭がよくて立派そうな人が必ずしも経営に成功していないように思えることがあります。これは、「人情の機微」や「心の的を射る人」と「心の的を外す人」の大きな差が出てしまってのことだと思いますので、本日のタイトルにあげましたように、心の的を射るために、論語や韓非子、さらには老子も学んで 威厳と愛情どちらが有効? と言う前に 今後はどちらも身につけてまいりましょう。
テーマ 心の的を射るために
◆ 威厳と愛情どちらが有効? ◆
おはようございます。東洋思想家の林英臣先生の『心の的を射る人・外す人』という著書の中に「母親が子供を愛するのは、父親の倍ほどあるのに父親の子供への命令は、母親の十倍も効果があるのはなぜだろうか?」さらに、役人は人民に対して愛情を持っていない。だが政令の効力は、これまた父親の万倍も高いし、母親は子供を溺愛してしまうので 指導に行き詰まるが、役人は威厳というものを用いることで人民というものを服従させられる。と書かれております。これを読むと威厳というものと愛情というもののどちらが有効的なのかがハッキリと分かってまいります。
そして、両親が子供に望むこと とは生活においては安全と繁栄ですが、操行においては罪を負ったりしないことだと申しております。……ところが、君主が人民に期待するのは、危機には命を懸けて国を守ってくれることであり、平和の時には、力を尽くして真面目に働いてくれることであると申しております。
親というものは、大変 深い愛情を注ぎ子供に幸せになってもらおうとしても子供には 分かってもらえずにおりますが、君主というのは人民に愛情をかけなくとも、死力を求めた命令が行き届くようです。 真のリーダーたる者は、このような人間の実態を知っているというのです。
したがって恩や愛情の心を養うことよりも威厳に満ちた権勢の増大に努めるようになるのですが、これらの話を聞いておりますと何かモヤモヤとした気持ちが心の中に起こってまいります。何故かと申し上げますと人間とはこのように生きるべきである。また、このように生きなければならないという孔子の理想とする教えのような 性善説ではなく これは、法家思想の韓非子という性悪説に学んでいることを申し上げているからなのです。
人間とはこうあるべきですと性善説に書かれ正しいことだけを申し上げている『論語』などとは違い 人間とは神と悪魔の中間に生きており 人間である限り誰もが、不完全で怒りや妬み私利私欲の感情を持ち『中』や『常』といい中程度の常人として、生きる我々の道筋を 組み立てようとしている『 韓非子 』という性悪説に基づく冷徹な思想家の考えだからです。人間の本性は利益を 求め害を避けるものと考え、法律を国家の基準として定め、賞罰を与えることで厳しく守らせるという法治主義を説いたものが『韓非子』というものなのです。
したがいまして『韓非子』を学べば、「人間とはこういうものだ」という現実がよりよく 掴めてくるのですが、この後、それをどのように生かしていくか?と考えた時に、人の心 いわゆる人心掌握の極意を学ぶために人を動かすための七つの術である『七術』を活用とすれば、私のような頭の悪い経営者でも人並みとなれるのかもしれない事に気が付くこともあるのです。
その七術のはじめである その一には『参観』が出てまいります。この参観はよく授業参観という言葉に出てくるように自分の目で確かめるという言葉なのです。 組織が大きくなるとトップが現場から離れるようになり、ご機嫌取りの部下の心地よい情報しか入らなくなるため 自分の目で確かめる『参観』が大事となってくるという訳なのです。
その二には、『必罰』が出てまいります。これは軽い罪を重く罰するというように必要な時は例外を作らないような罰則を与えることでマナーを守らせることで昔、諸葛孔明が特別に目をかけていた若き将軍・馬謖が軍令違反を犯してしまった時、有能な馬謖を斬罪に処したことがあった。愛する部下を斬らざるを得ない悲運に涙したことがあった。これが『泣いて馬謖を斬る』の真相なのです。
そして、その三に『信賞』というものがあります。文字通り必要な時に罰を与えるというならば、頑張って成果を上げれば認められるという信頼が得られるような功績を讃える賞を、『信賞』としてあげております。
そして、その四に『一聴』といって一人ひとりに発言させ、会議等でも それぞれに責任を持たせどんな小さなことでも責任が伴うことを教えております。
その五には『詭使』といって、トリックを用いて情報を入手し相手を欺くことで懼れさせ相手に何でこんなことまで知っているのだろうと思わせるのがある。
さらに、その6『挟知』といって、切った爪をこっそり隠して知らないふりをして「 爪が一本見当たらぬ、急ぎ探せ 」と命じた。慌てた近侍らは、こっそり自分の爪を切り「ここにありました」と差し出したが、そこで近侍の不誠実さを察知したといいます。
そして、その七『倒言』といってわざと逆のことを言ってみて、どちらが真実かを確かめるというものがある。これに似た話が日本の忠臣蔵にもある。有名な赤穂浪士の討ち入りの前、大石蔵之助は、討ち入りをやらぬ素振り見せ 本心を隠し仲間の反応確かめていたようなのです。真に仇討ちを志す者ならばそれに憤慨するはずであるが、威勢はいいが実は、逃げたがっている者なれば、ホットすることになってまいります。
赤穂浪士の討ち入りとは命がけであるので、本当についてくる者とそうでない者を内蔵助は 韓非子の『倒言』を使って選り分けたといわれております。
如何でしょうか? 諸子百家の思想には『 論語 』ように人間として正しい道はこうであるという道家思想や 法による厳格な政治で君主の権力を強化し、富国強兵をはかろうとする 本日お話をしました 法家思想の『韓非子』を学んでみますと人生、山あり谷ありということが分かってまいりますが、その山も谷もさらに深く大きな谷で受け止めてしまおうというのが、『老子』の発想であり、無為自然…あるがままに自然に逆らわずに暮らすべき、背伸びをする者は長く立っていられないし、大股で歩く者も長くは歩けない 現実を現実としてあるがままに受け入れ、物事をそれが進みたいように、自然に前に流されてというのが、老子の谷の発想ですが、誰が見ても頼りなさそうな人が商売において成功していることがあり、反対に頭がよくて立派そうな人が必ずしも経営に成功していないように思えることがあります。これは、「人情の機微」や「心の的を射る人」と「心の的を外す人」の大きな差が出てしまってのことだと思いますので、本日のタイトルにあげましたように、心の的を射るために、論語や韓非子、さらには老子も学んで 威厳と愛情どちらが有効? と言う前に 今後はどちらも身につけてまいりましょう。
Posted by 内田建設 at 17:37│Comments(0)